明日が楽しみになる日記

おっちょこちょい、人見知り、小心者のこっこが好奇心だけで世界を旅します。

ブリスベンでの学校生活

ひとつ前の記事で、私がオーストラリア滞在中に通っていた小学校がユニークだったことを書きました。今日はどういう点を私がユニークだと感じているのか、紹介してみたいと思います。

まずは、教室のレイアウトです。2つのクラスルームが2間続きになっているようなレイアウトでした。私が最初に転入したクラスは2年生と3年生のクラスが一緒になっていました。ホームルームに加えて、一部の授業(体育、美術、音楽、課外活動など)は2年生と3年生は一緒に授業を受けていました。先生も2人いて、2人の先生で2年生と3年生を見ているという状態でした。

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また公立の学校にも関わらず、かなり個人の学習進度に合わせて柔軟な対応がとられていたように思います。私は転入した当初、全く英語が話せなかったため先生がつきっきりで英語のレッスンをしてくれていました。また、算数は日本の学校の授業のほうが進んでおり一通り理解していたことから算数の授業には出ずに先生からの別の課題に取り組んだり、代わりに国語のクラスに出ていたりました。これは何も私が外国人だからというわけではなく、それ以外のクラスメートも同様だったように思います。クラスは学習の進度に合わせて3つのグループに分かれていました。飛び級をすることも認められていたのでクラスメートだけど年齢も時間割も違っているのは当たり前で、それぞれ自分の難易度にあったレベルの課題をやっていました。このように細かくレベル分けをして授業が進むので先生だけでは足りない場合は、ボランティアの保護者の方が先生役を買ってでてくれる授業もありました。

 勉強も体育も美術も苦手な私が一番好きだったのは音楽の授業でした。少し前に赴任してきたという音楽の先生は長髪の男性の先生で、私は日本の小学校では見たこともない先生の風貌に面食らいました。(思い起こせばバンドマンだった先生主催のディスコナイトみたいなイベントもありました。日本の公立の小学校では考えられない><。)しかも先生は、ほかの優しい女性の先生とは違って課題をちゃんと練習してこない生徒には顔を真っ赤にして怒鳴るので最初のころは音楽の授業のある日はとても憂鬱でした。

転入してしばらくはコーラスの授業をしていましたが、あるときからリコーダーの授業が始まることになりました。日本で使っていたリコーダーとは少し仕様が違っていたので(一部押さえる指が違う音があった)、父があわててショッピングモールで新しいリコーダーを買ってきてくれました。

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そこからの私は何かにとりつかれたようにリコーダーの練習に励みました。本来歌うことも好きな私ですが、その当時は英語がわからなかったのでコーラスではみんなについていくことができなかったのです。その点、リコーダーなら譜面さえ読めればみんなと同じように演奏することができます。音楽の授業では先生が毎回、数名の生徒を指名してリコーダーの課題を演奏させます。体を小さく丸めて指名されないようにして過ごすこと数か月、ついに指名される日がやってきてしまいました。私は心臓が爆発しそうになりながら、おうちで寝ても覚めてもずーっと練習していた課題曲を演奏しました。その日からクラスメイトの私を見る目が少し変わりました。「こっこは英語はできないけど、リコーダーはすごいね」って。先生も見たことがないくらい穏やかな表情で褒めてくださいました。

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日本では音楽の成績が3だった私が、オーストラリアの小学校では「こっこには音楽の才能がある」と学校の先生方が面談などで褒めてくださるので両親は目を丸くしていました。私に音楽の才能があったかはさておき、その子のできるところを見つけてとことん伸ばそうとする、そういう土壌がFig Tree Pocket State Schoolにはあったと思います。